Divider

グラスミア・ジンジャーブレッドは、1854年、ヴィクトリア朝時代の料理家セーラ・ネルソンが、今日のグラスミア・ジンジャーブレッド・ショップである小さなチャーチ・コテージにて、スパイスと甘味を合わせたオリジナルレシピで焼き上げたのが始まりです。セーラは、コテージ入り口前の切り株に台を乗せてジンジャーブレッドを並べ、村人たちやグラスミアを訪ねてくる旅行者たちに販売したのです。

Abrahams-300

その数年後には、グラスミア・ジンジャーブレッドの評判が全国に及び、蒸気機関車の開通とともに観光旅行者がグラスミアに詰めかけては、この芳しいジンジャーブレッドを買い求めるようになりました。.

晩年には、セーラはグラスミアの村に欠かせない人物の一人に数えられるようになりました。セーラはいつも、白いエプロンにショールを羽織ってチャーチ・コテージ前の椅子に腰掛けていたといいます。

名画『ホイッスラーの母』にも似たセーラの代表的なポートレイト写真が現存しますが、ではこのセーラ・ネルソンとははたしてどんな女性だったのでしょう?

セーラ・ネルソン

1815年にウィンダミア湖岸の村ボウネス・オン・ウィンダミアにて貧しい家庭に生まれたセーラ・ケンプ(本姓)は、生まれついた時から働きずくめの生涯を送る定めにありました。

セーラが生まれた時には7歳になる姉アンがいましたが、すでに夫に先立たれたセーラの母は、日々の家事と裕福な家庭での台所仕事の掛け持ちで忙しく、いつもひどく疲れていました

二人の娘に初歩的な教育しか受けさせることのできなかったセーラの母は、しかし彼女たちに家事全般のやりくりの仕方を教えたのでした。19世紀初期のイギリスでは、貴族や裕福な家庭で女中として働くことは、厳格な階級社会の中で労働者階級の女性たちが手に入れることのできた数少ない職でした。当時の労働者階級の男女にとって、階級や場所を越えて自由に職を求めることができる世界というのは、単なる理想でしかなかったのです。

Sarah Nelson

セーラ・ネルソン

過酷な労働条件

The Old Kitchen

挿絵は、1892年、自宅のキッチンで働くセーラ・ネルソン。背後の食器棚は、村の学校だった当時ノート代わりに用いた石板をしまうために用いられたもの。今日もそのまま残っています。

幼いセーラは、洗濯や掃除、豚小屋での雑用など過酷な労働条件のもとであくせく働きながらも、その生まれ持っての前向きな性格から、将来もっといい暮らしができるようになることを夢見ていました。

セーラはできるだけ多くのことを学び、上流階級での仕事ぶりや作法を他の女中たちから学び取って、ついにはとあるケンダルの私邸で料理人として雇われるまでになりました。

独創的な料理家だったセーラは、どんどん料理のレパートリーを増やしていき、やがてその評判は確たるものとなりました。そして、湖水地方北東の市場町であるペンリスの私邸に料理家として招かれることになります。セーラに恋が芽生えるのは、この町が舞台でした。

Divider

結婚

セーラが離婚歴のある小作人ウィルフレッド・ネルソンと出会ったのは1844年のこと。二人はすぐに恋に落ち、やがて地元の教会で結婚式を挙げて、新たな家庭を築くことになります。

Sarah-Nelson-Marriage-Certificate

その後間もなくして、二人はもっと賑やかな町ランカスターに移り住みます。夫のウィルフレッドは紅茶の販売と八百屋業を営むようになり、収入と生活の安定が望めるようになりました。

そんな折、セーラは男の子をもうけます。1846年のことでした。男の子はジョンと名付けられました。そして1848年にはマリー・アン、1850年にはダイナと、二人の女の子が授かりました。ウィルフレッドの営む八百屋も繁盛し、ネルソン一家は安定と幸せを手にいれたかと思われました。しかし、それも束の間、運命が一家を引き裂くことになるのです。

病気と死別

1852年、長男のジョンがコレラにたおれます。ヴィクトリア朝時代のイギリスでは、粗末な衛生事情から不治の病とみなされていたコレラ。この時代、人口過密の都市ではどこでも、このコレラによって多くの人々が命を落としました。

そして、数週間にわたるセーラの必死の看病にもかかわらず、ジョンは帰らぬ人となってしまいます。幼くして生涯を閉じねばならなかった息子を前に、セーラとウィルフレッドは悲嘆に暮れました。ジョンの葬儀の後、残された二人の娘たちにもコレラの猛威が及ぶことを恐れたためでしょう、ネルソン一家は北イングランドに引っ越すことを決めます。そして移り住んだのが、湖水地方のふところ、澄んだ空気となだらかな丘、きらめく湖や川に取り巻かれた美しい村グラスミアでした。

そこは、『水仙』で知られるロマン派詩人ウィリアム・ワーズワースがいつくしんだ地。ワーズワースが世を去ったのは、一家が移り住むわずか2年前のことでした。当時、セーラはそんな土地柄であることなど全く知りませんでしたが、グラスミアの村は、やがてセーラの生み出す特別なお菓子の名で広く知られるようになり、その評判は世界中に広がることになるのです。

Wilfred Nelson Grave

ウィルフレッド&セーラ・ネルソン夫妻の眠るお墓

新たな門出

St Oswald's Church

グラスミアの聖オズワルド教会

いずれの近郊都市からも離れたグラスミアでの暮らしでは、ネルソン一家がやりくりしてゆくのに必要な仕事は決して多くはありませんでした。

ウィルフレッドは聖オズワルド教会の聖堂墓地での穴掘り作業のほか、地元建設業の作業員として働き、セーラは地元の裕福な家庭を掛け持ちして、家政婦として働きました。

ランカスターで暮らしていた頃に比べ、収入は二人合わせてもわずかでしたが、セーラの家政婦としての仕事ぶりは見事で、倹約しながら日々の暮らしを何とかやりくりしていたのでした。

 

質素な生活であるとはいえ、二人の娘たちは地元の学校にも馴染み、牧歌的な田園風景に取り囲まれてのびのびと遊び、健やかに幸せに暮らしていました。

新居

さて、グラスミアのデールロッジでは、園芸家や料理家、家政婦のための仕事の口に事欠くことがありませんでした。マリア・ファークアー婦人の別荘であったデールロッジでは、ランチおよびディナーパーティーが季節ごとに催されていたからです。そこで白羽の矢が立ったのが、当時すでにグラスミアの村中に料理自慢で知られていたセーラ・ネルソンでした。

婦人のために数々の料理を用意する折にも、セーラは自家製ケーキやビスケットなどのお菓子を作ることを忘れませんでした。この頃には、かつてゲート・コテージと呼ばれ、村の学舎として使われていたチャーチ・コテージを住まいとしていましたが、デールロッジでの仕事と日々の家事との両立も好調で、日々の暮らしにリズムが生まれて生活も安定するようになっていました。

1630年に村人の寄付金で建てられた古風な平屋建てのこの学舎は、近くにより大きな学校が建設されるということで空き家となりました。聖オズワルド教会に隣接するコテージは、聖堂墓地で働くウィルフレッドには、まさにおあつらえ向きの場所でした。

Gate Cottage

1860年頃に撮影されたゲート・コテージの写真。今日のコテージは、ほぼ当時のままを保っています。

転機

実のところ、それがいつだったのかは誰も知りません。1854年の冬のことだったのは確かです、セーラがスパイスの効いた甘美なお菓子のレシピを考案したのは。そして彼女は、そのお菓子をグラスミア・ジンジャーブレッドと名付けました。

 

Trademark
ビスケットともケーキとも違う、不思議な食感と味わいのこのジンジャーブレッド。それは、かつて誰も味わったことのない美味しさでした!デールロッジでの仕事は継続しつつ、セーラはこのグラスミア・ジンジャーブレッドのスライスを模造紙に包み、小さなコテージの屋外で村人や旅人たちに売り始めたのでした。

 

公式には『登録商標がないため純正でない商品』として登録されたグラスミア・ジンジャーブレッド。その販売開始は、鉄道開通に伴い、湖水地方がヴィクトリア朝時代の人気観光スポットなる時期に重なりました。

すると、ジンジャーブレッドの噂はまたたく間に広まりました。そして、観光旅行者がおのおの自分たちの住む町にお土産として持ち帰るのを見て、セーラは一大決心をします。デールロッジでの仕事を辞め、このジンジャーブレッドの製造販売に専念することにしたのです。それは、それまで以上に骨の折れる仕事でした。こうして、レシピの混合から焼き上げ、包装、そして販売をこなす日課を毎日、その後50年続けることになるのです。

悲劇

19世紀の労働条件の過酷さから、ほとんどの労働者階級の人々にとって死は身近なものでした。セーラ・ネルソンもその定めから逃れることはできませんでした。1861年にセーラの母が亡くなったのです。享年88歳と考えられていますが、当時の平均寿命が40代半ばだったことを思うと、大変な長寿を全うしたことになります。1880年には最愛の夫ウィルフレッドが75歳で亡くなりますが、やはり長寿でした。1884年に亡くなった妹のアンも享年75歳で、みな長寿を全うしています。しかし、何より悲劇だったのは、二人の娘たちの若すぎた死を甘受しなければならなかったことです。末娘のダイナは1869年に18歳で早逝し、その翌年には結婚したばかりのマリー・アンが22歳の若さで亡くなっています。二人とも結核を患っての早逝でした。

Dinah-Grave
Mary-Ann-Grave

先に幼い長男のジョンをコレラで亡くし、さらに二人の愛娘にも先立たれてしまった父親ウィルフレッドの悲しみは計り知れませんでした。すっかり気落ちして酒で悲しみを紛らわすようになったアルフレッドは、体調を崩して長く仕事ができなくなってしまいます。

そんな次第で、今やネルソン家の生活はセーラの肩にかかっていました。セーラは、自ら生み出したグラスミア・ジンジャーブレッドの製造販売にいっそう打ち込みました。そして、人々がジンジャーブレッドを楽しんでくれるのを見ては、自分のことのように喜び、労苦を乗り越えて行ったのです。

 

偉人として

19世紀も後半にさしかかり、公式名称『グラスミア村チャーチ・コテージ菓子製造業者』– 今日のグラスミア・ジンジャーブレッド・ショップ — を営む経営者としての地位を確立したセーラは、秘密の手書きレシピを地元の銀行の金庫に保管しました。その謙虚な性格から、生涯を閉じるまで偉人と呼ばれることを決して許さなかったことは明らかですが、女性起業家が経営に乗り出すようになる時代のはるか以前に、こうした業績を残した女性として、その先駆的で模範的な生涯はまさに偉人と呼ぶにふさわしいことでしょう。

湖水地方を終生の場所としたビアトリクス・ポター同様、セーラは伝統的に守られてきた女性のあるべき姿という考えをくつがえし、彼女が暮らした湖水地方をはるかに越えて、今日でも自立的な女性の規範となっています。とはいえ、セーラは自分のルーツを決して忘れはしませんでした。子供たちをすべて若くして亡くしているにもかかわらず、かえって自らを叱咤し、村の幼稚園児たちに読み書きを教えたのでした。それも、グラスミア・ジンジャーブレッドの印刷文字を使って!

Sarah Nelson

 

それは、セーラが立ち上げた事業を応援し続けてくれたグラスミアの村人たちへのささやかな感謝のしるしでした。実のところ、子供たちに先立たれて悲嘆に暮れるセーラとウィルフレッドにとって、それが何よりの慰めとなったのでした。こうしてセーラは、新しい世紀の始まりを見るに至ったのです。時は1901年、ヴィクトリア女王の崩御とともにエドワード王が即位し、新たな時代の幕開けとなったのでした

Sarah-Nelson-Death-Certificate
そして1904年、セーラは88歳の長寿を全うして息を引き取ります。それは、まるでグラスミアの村の生活にぽっかり穴が開いてしまったようでした。セーラの葬儀は彼女の死を悼む村人たちでいっぱいになり、その遺体は彼女が暮らしたチャーチ・コテージのすぐ隣、詩人ウィリアム・ワーズワースも眠る聖オズワルド教会の聖堂墓地に葬られたのでした。
160

グラスミア・ジンジャーブレッドが生まれて160年が経った今でも、セーラ・ネルソンの貴重な遺産は生き続けています。ビスケットともケーキとも違うスパイスの効いた甘美なジンジャーブレッドは、かつて彼女が暮らした家、現在のグラスミア・ジンジャーブレッド・ショプにて、今日も毎日オリジナルレシピを使って焼き上げられ、世界中の人々に楽しんでいただいています。

Divider